シャトーブリアンに新体操に生バイオリン&ピアノ

私の育った環境と私の娘が育つ環境は違う。当たり前のようだが、違った環境で育つということは、将来が読めなくなる。そう、彼女がどのような価値観を持った人に育つのか、まったく予想ができない。楽しみであり、不安でもある。そんなことを考えている。例えば、食生活。私は今日、生まれて初めてシャトーブリアンを食べた。彼女は5歳で初めて食べた。また、私は今日初めて、新体操という競技を目の前で見た。彼女は5歳で初めて見た。先日、数メートル前でバイオリンとピアノを演奏してもらった。これも彼女と同時に聞いた。ほかにも、私は我慢の教育を受けたが、我慢より主張を重んじるのが今の教育だろう。私の場合の、成長の過程を例えてみると、ロールプレイングゲームに近い。まず、オープニングは幼稚園。親以外の他人と1対1で接するようになる。初めての対決というやつだ。小学生になると自転車を手に入れる。すると、家の中から外に仲間と一緒に旅立つことが出来る。公園や家で遊ぶのだ。次に中学になり、色気づき始め異性を意識するとともに、公共交通機関を利用して、町に出かけるようになる。今までは周りと同じを求めたが、他人との違いを見出すために、初めて自分で買い物に出かけるのだ。そして、高校生になり、飲食店に入ることができるようになり、自分で洋服を買ったりする。コンサートなどの自分と共通価値観を持つ場に出かけたりする。そして自分を強く主張しだすのだ。大学生になると、車を使いだし行動範囲は国内に広がる。出来ないことがほとんどなくなる。そして、世界という最終ステージへも足を踏み入れる。このように、できることを増やし、その都度、大人に近づく感覚に満足を覚えていった。そして、社会人になり、美味しいものを求めたり、プロの演奏やスポーツを観戦したりする。徐々に自分の価値観を確かめながら自分の個性と向き合うようになった。話を戻すと、私の娘は、このような成長過程とは違ったものになるのだろう。まったく想像がつかないが、とても楽しみでもある。子育てというのは、元来、そういうものなのかもしれない。今も昔も。